ティアーズ・オブ・ザ・サン

主演・ブルース・ウィリス

女性医師リーナ・ケンドリックスを<救出>せよ。○彼らは<軍人>であるよりも<人>であることを選んだ。○それでも私は、あなたたちを守りたかった。○この作品には単なるアクション映画以上の重要なメッセージがある。○監督は人間についての映画を撮りたかったのだと思います。○なぜ死地に引き返したのか?-軍に背いてまで。なぜ聞く者のない嘆きに、耳を傾けたのか・・・?ただ心の命じるままに、彼は救いの手をさしのべた。-例えどんな犠牲を払おうとも・・・。これらの言葉はパンフレットのキャッチコピー。これを読むと映画を見てみようと思ってしまうから、さすがにプロの文言には感心する。
88年、「ダイ・ハード」で大ヒットを果たしスターとして不動の地位を獲得したブルース・ウィルス。「アルマゲドン」は映画が大ヒットして更に人気を博したが、演技派としては、まだまだ?マークだったが、この作品では内容の良さもあって演技派として一歩前進した観があった。007のショオ-ン・コネリーのようにこれからを大いに期待したいものがある。
 『善なる人々が行動を怠れば、必ず悪が勝利する』―エドマンド・バーク―
名言?にしてアメリカ人の論理を的確に表現していると思われるが、今のアメリカの政治が、国民の意識がこの論理で動いているのであろう。奇しくもこの日、筆者は同時に「壬生義士伝」をビデオで見た。あまりにも対照的な作品の内容に考えさせられた。正義の名の下にザ・サンの主人公ウォーターズ大尉は上司の命令に背いて、一人の女医のために7人の部下の犠牲と国家の危機を代償に女医と難民を救出する。片や、壬生義士伝の主人公中井貴一は幼馴染の親友に助けを求めるも、「武士の情け」という正義と大義名分の名の下に切腹、自決することを勧められ、その機会を与えられる。「お前、一人の命のために国を犠牲にはできない」と言い捨てられる。はっきりとありありとアメリカ人と日本人を二つの映画が描写している。正義の名の下には何をしても許されるのであろうか。個人の立場の正義と公の立場の正義は自ずと違ってくる。戦争という状況下においては公の正義が優先されればならない。だから、戦争は絶対に許してはいけないのだ。アメリカの矛盾がここにある。おそらくはこの映画はアメリカ人に受け入れられたであろう。しかし、筆者はアメリカおよびアメリカ人の矛盾に大いに疑問の念を抱く。
公の学校と私の塾。この公私についても我々日本人は熟考せねばならない、学校が塾を模倣したり、塾が学校の模倣をすれば、それぞれの良さが喪失する。公私の違いの良さが発揮されてこそ「学校」は学校足りえて「塾」は塾足りえるはずだ。充足するということはそう言うことであって、補い合うなんてことはおおよそナンセンスではないだろうか?補足+補足=充足(0.5+0.5=1)ではなく、充足+充足=満足(1+1=2)になる教育が必要だと思う。学校と塾という二つのものがあって1とは情けない話ではないだろうか。ここのところにおける塾人の「論理」「正義」を問いたい。それが子どもたちへの教育ではないだろうか。

  
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