たそがれ清兵衛

主演/真田真之・宮沢りえ 監督・山田洋次
誰かを大切に思う心・目立つことのない本当の勇気や誇りなど、現代の日本人に失われ手しまった“心”を描いて、ほのぼのとした哀切さがしみじみと伝わってくる。そんな映画を山田洋次監督が作り上げた。哀切さを形容するに「ほのぼの」というのはないはずだ。しかし、それを表現するところに名手としての山田洋次監督の存在がある。観客を、映画を良く知っている、だから、受ける(ヒットする)台詞、内容に仕上げるのはお手の物だろう。しかし、氏は決して受けを狙わない、もっと高いレベルで、研ぎ澄まされた言の葉を台詞に表現する。これは透徹した「人間観」にほかならない。いつも監督・脚本を手がけるのはそのためだろう。初めての本格的な時代劇を10年間温めてきて、藤沢周平の時代小説「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助八」を原作にいいとこ取りをしたのも、監督の映画観と手腕のなせる業だろう。文庫本の総発行部数2300万部が示すとおり、吉川栄治・山岡荘八・池波正太郎・藤沢周平と来れば、そのジャンルにおいては圧倒的なファンを持っている。時代小説の名手の作品を映画の名手が手がけたら必ずいい映画ができるとは限らないが、この映画は昨年の日本映画の賞を総なめにした。昨秋からまだロングラン上映が続いているのもその証拠だろう。時に人気だけで名声を博することもあるが、「たそがれ清兵衛」は名実ともに優秀作に仕上がった。後は更に良くなるために観客が名手になることだろう。
 真田広之・宮沢りえ、かつてのアイドルが俳優、今やいい俳優、男優・女優になった。特に宮沢えりは篠山紀信のサンタフェでヌードになって文字通り、一皮も二皮も向けて演技派女優に変身した。NHKの大河ドラマでも代表されるとおり、実よりも名を取ったキャステイングをするために、ミスキャストが目障りで面白くなくなることもあるが、この映画は見事にはまったといえる。いい映画がいい俳優を作り、いい俳優がいい映画を作っていい形になった例である。
 作品の中に『塾』という言葉が出てくる。その中で清兵衛の娘、萱野が「針仕事は役に立つけれど、勉強(ここでは論語の素読)は何の役に立つのだろう」と問いかける。清兵衛はそれに対して見事に答える「考えて生きるために、考える力を付けるために」と。これはそのまま山田洋次の思想だといえるが、格好の場面で絶妙に言わせるところに素晴らしさがある。言葉は心を伝え愛を語るものだ。山田洋次の映画にはいつもそれらが散りばめられている。天空のきら星のように。乾いた心を癒してくれる。
 何のために塾へ通うのか?その答えを明確に、親や子供たちが理解できる内容・言葉を塾側が、先生の側が持っているだろうか。通塾生の何割が学問の必要性を持ち、通塾の意義を持っているだろうか?教える側の問題を子供たちのやる気の無さにすり替えていないだろうか?目先のニーズに応えるのではなく、本当の必要性にしっかりと応えてやりたいものである。